自由が不自由なことはありませんか?
発達障害の子供と関わっていて、時々動けなくなっている子供を見かけることがあります。
何か考えているようにも見えますが、そういう感じでもありません。
そういった様子を見かける時は、自由時間の時が割と多いように見受けます。
活動している時は何も問題がないのに、自由時間となると問題が生じる。
実例と共に、理由を考えたいと思います。
本当に動けないのか、それとも動かないのか
兵庫県にある姫路セントラルパークに生徒達と行った時のことです。
普段は集団行動をしてもらって楽しんでもらうのですが、今回は趣旨を変え、一人で行動できるようになることがねらいです。
これまでの活動で、A君という生徒が一人で動けないタイプかもと思うような行動を見かけたので、確認の意味合いも含めて、一度やってみることにしました。
最初は2時間程集団で行動する時間を設け、その後一人で行動する時間を設けました。
集団行動時のA君は皆と楽しそうにアトラクションを乗ったりしていましたが、一人行動となるとガラリと様子が変わりました。
私が「一人で自由に行動しておいで!」というと、皆散らばってアトラクションに乗ったり、買い食いをし始めたりしたのですが、そのA君だけは解散場所から動きませんでした。
とりあえず私もその場から離れて、遠くからA君の様子を見続けました。
10分経過するが動く様子がなく、15分経過した辺りで遊園地のマップを広げて見始めました。
しかし、そこから動く様子がなく、辺りをキョロキョロし始めます。
頭の振り方を見ると、何かを探している様子ではなく、軽くパニックを起こしている様子でした。
理由があって動かないのではなく、動けないという状態になっているのだと、そこで私は確信を持ちました。
30分過ぎたあたりで歩き始めましたが、足取りはおぼつかなく、何か目的があって歩いている感じではありません。
そこへ、たまたま他の生徒がA君の近くを通り過ぎ、それに気が付いたA君はその生徒の後を追いかけました。
そして、他の生徒と一緒に行動するようになりました。一人行動の時間なのにと内心思いながらも、注意することは止めておきました。
その後、何故動かなかったのかと訊くと、「何をしたら良いか分からなかった」ということでした。
自由な活動がA君にとっては不自由な活動でしかなかったようです。
自由と不自由の意味
自由を辞書で調べると、「自分の意のままに振る舞うことができること」「外的強制や束縛がない」ことを意味します。
これは人間がようする権利でもあり、生きていく上で重要な要素でもあります。
自由があるから人生が楽しくなるといっても過言ではありません。
不自由はその逆で、「自分の意のままに振る舞うことができない」「外的強制や束縛がある」。
不自由は人間性を否定し、心を締め付ける要素もあるので忌み嫌われます。
今回のケースを考えると、この辞書の意味では納得できるような、納得できないような感じで、発達障害のある人が動けない理由と上手く結びつきません。
しかし、ある方が自由の定義について面白いことを述べていました。
自由の定義
自由とは、「限られた選択肢の中から、自分でよく考えて決断すること」。
これを読んで、「これだ!」と思いました。
限られた選択肢というのは、自分の能力、お金、自分の好きなもの(こと)といったことは限界があり、必然的に限界があります。
だから自由といっても、選択肢は無限ではありません。
自分でよく考えて決断するの「よく考えて決断する」というのは、選択肢を精査して取捨選択し、決断に至る。
自由は無限の可能性にフォーカスしてしまいがちですが、よくよく見ると実は自己理解力、選択肢を精査する力、決断力という要素が含まれるのです。
動けない理由
発達障害のある人(全員ではない)にとって、自由が不自由になってしまうのは、上記のことが起因しているのだと私は推測します。
A君の自己理解度は決して高い方ではありません。
お金の限界は財布を見たら分かりますが、自分の能力や自分の好きなもの(こと)が実はよく分かっていないタイプです。
そのためA君には選択肢が膨大にあり、選択する際の基本軸も彼の中にはまだ確立されていないということもあって、何を選べば良いか分からず、パニックになってしまったのだと思われます。
別の活動で、「必ず何かを食べる」「スピードが速いアトラクションに一回は乗る」といったように、ある程度の不自由さ(範囲を絞る)があると、A君は問題なく動けていました。
自由は大切ですが、ある程度の不自由さ(例:ルール)があるからこそ、自由は成立するのだと思います。
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